障害年金が給付されることになりました


1945年8月7日に愛知県の豊川海軍工廠で、見習い生として働いていた15歳のIさんは、B29の大編隊による空襲にあいました。この時、2千人を超える爆死者が出ましたが、8月6日、9日の原爆の間の豊川海軍工廠の惨害については、報道されませんでした。Iさんは、爆撃のショックで倒れ、気を失っていた時、爆撃の後の火災で倒れた材木の下敷きになり、火が迫って熱くなり、意識を取り戻しました。足が材木に挟まれて大腿に大けがをしていましたが、助け出され命拾いをしたのです。この時頭部にも受傷しましたが、9月になって当時の軍医が書いた証明書には頭部外傷が書かれていませんでした。Iさんは、戦後になって、リハビリを受けて、足の負傷は気がつかれない程度まで回復しました。ところが、1984年ごろにてんかん発作を起こしたのです。受診したM病院の医師に、「なにか頭部外傷の痕跡があるが、若い時にけがをしたのか」と聞かれ、空襲のことを思い出しました。当時は、軍人のみに恩給があり、軍属にはありませんでした。その後、軍属の恩給が創設されましたので、1996年に障害年金の申請をしました。豊川市には八七会という豊川海軍工廠爆撃を祈念する会があり、Iさんは、その会で「年金がもらえるはずだ」と聞いたそうです。米軍が空爆直後の豊川海軍工廠を撮影した写真を公表し、中日新聞には1984年ころ、掲載されています。
1996年に障害年金を申請して、合計3回の申請が却下されました。大田区が窓口になり、東京都が厚労省に申請をする仕組みで、審査にも相当時間がかかるのです。申請後の結果を受け、不服申請をしたりすると、2年くらいはすぐに立ってしまいます。
Iさんは、3回目の却下通知を受け、もう1度申請しようとしていた時、たまたま経営する食堂に、かち都議会議員と金子区議会議員が立ち寄りました。「なにかご相談があったら」とかち都議が置いてきた名刺に、3か月後に電話をしてこられました。これが、今回の相談の始まりで、2010年11月のことです。12月に大田区福祉部援護係職員の援助を受け、4回目の書類を提出しました。2011年5月に却下通知が届きました。2012年5月に、弁護士さんと相談し、審査書類の開示請求を行い、異議申し立ても行いました。2012年7月に、「書類だけでなく、本人から意見聴取をして、話を聞いてもらいたい」と、本人と、東京都の福祉保健局の担当者から要請してもらいました。8月に本人宛に、1時間の事情聴取を行うと厚労省から通知がありました。2012年8月6日に、厚労省の1階会議室に、Iさん、娘さん、小林弁護士、金子区議が、厚労省の担当者の女性2人に聞いてもらうことになりました。これは、Iさんが初めて、国家に対して、書類でなく、自分の被害を直接申し立てる機会になりました。その後、12月に、追加の書類請求を厚労省から求められ、2011年の決定を破棄し、障害年金を給付するという、今回の決定になったものです。
金子議員の話
 今回給付されるようになったことは、Iさんがあきらめないで訴え続けたからです。私も、M病院の脳外科の医師に話を聞いたり、豊川市の行政や議員団に問い合わせたりして、戦争中の事件を証拠立てることがいかに大変かを痛感しました。Iさんの同級生なども高齢ですから、証人になると言ってくれた方が亡くなるなど、年々不利になるのです。小池晃前議員、田村智子参院議員の協力も得て、給付にこぎつけたことは、本当に良かったです。しかし、戦後の年月や、リハビリの苦痛など考えると、Iさんの苦労に報いるのには十分ではありません。東京大空襲など一般人への補償も行うこともまだ残された戦後処理です。なにより、再び戦争をしないことを政府が憲法9条を守ることで、国民に約束することが必要です。

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