ハンセン病国家賠償裁判の原告団長だった谺雄二さんが亡くなりました。重監房を再現させる記念館ができるのを見届けて、旅立たれました。2010年に大田区後援会は400人を超す9台のバスを連ねて、栗生楽泉園を訪問しました。その時園内の案内をしていただき、谺雄二さんの講演を中央会館において全員で聞きました。穏やかな優しい声で、国家の犯罪を諄々と説いておられて、胸を打たれました。
大田区からは鶴岡征雄さん、白石後援会事務局長、金子悦子区議の3人で参加しました。先に楽泉園の納骨堂前で献花をして、その後ホテル櫻井の谺雄二さんを偲ぶ会に参加しました。旅行の時宿泊したホテルです。北海道から鹿児島まで、多くの関係者の方約170人が参加され、谺雄二さんとの繋がりがこんなに全国に広がったのか、と感動しました。瀬古由紀子さんは、国会議員になってハンセン病療養所を全部視察し、当時の厚生省局長が、国賠訴訟を起こすのであれば自分が証言するといわれたこと、谺さんが国会で参考人として発言するとき、今後どう生きていきたいのか、と問われ、30年交際している女性と一緒に社会復帰をしたいのだ、と答えたことを紹介していました。長崎の諫早市議中野太陽さんが、24回大会で谺さんと会ったこと、選挙の時応援に諫早まで来られたことを紹介しました。赤旗記者の丸山さんが、谺さんは厳しい指摘をするが、よい記事は褒められたそうです。この方は東村山にお住まいで、多摩全生園にできた新しい保育園にお子さんを預けているということで、「ご縁があって」と説明されていたのが、印象的でした。
塩川衆院議員は、維新の会の議員が、患者さんが少なくなったハンセン病療養所は、職員の人員削減をしてはどうか、などとんでもない質問をしたということで、予定の質問を差し換えて、職員の配置増を求めるものにした、ということでした。
谺さんは詩人で、詩人会議に入っておられたそうで、文学関係の参列者が多くみられました。弁護士さんや議会関係者が多かったのも特徴的です。
私は、赤旗まつりで、ハンセン病元患者さんの若い世代にアピールする集会が行われた時に参加し、療養所もない患者さんにもお目にはかかれない地域だと、どういう支援ができるのだろうか、と発言しました。その時群馬県前橋の後藤さんから、浅井アイさんの写真集を送っていただきました。浅井アイさんは金沢の女学校の卒業式に出られなかったのですが、国賠訴訟の後里帰りをし、駅のホームで子どもたちに、「アイさん、お帰りなさい」と迎えられ、かつての学校で卒業証書を受け取ったことで、話題になった人です。送られた本をどう活用したらいいだろうか、と思案していましたところ、小中学校図書館に1冊ずつ送りたいと後藤さんから提案がありました。教育委員会に連絡しましたら、「喜んで寄贈を受け入れる」ということになりました。近隣の小学校に説明しましたところ、「そういうことだったのですか。今教職員で回覧しているところです」と言われて、うれしかったことを思い出しました。そのあと、栗生楽泉園に、後援会で伺うことになった次第です。
元国会議員で、大田区議を務めた伊藤憲一さんは、結核療養所で、ハンセン病療養所の重監房のことを知り、当選後ただちに栗生楽泉園視察を行い、重監房を廃止させました。特効薬のプロミンの予算がこっそり削減されようとしたとき時の大蔵大臣(池田という人でした)に直談判で復活させました。
私は、70年に大田病院に就職したとき、伊藤さんにハンセン病のことを知っているか、と質問されました。私は、学生時代に修学旅行で、熊本の菊池恵楓園に行ったことがありますので、知っていると答えましたが、90年代にもまだ根強く差別が続いていたのです。その伊藤さんを見て、谺さんは日本共産党に入党されたそうです。歴史は、奇跡のように繋がっていたのです。
ぜひ、栗生楽泉園に行ってください。重監房記念館は、人間にこんな仕打ちをしてよいのか、と思わされるものです。朝鮮名の人がいたのも、胸を突かれました。多摩全生園は近いので、もっと気軽に訪問したいものです。しのぶ会で、鶴岡征雄さん、金子区議、塩川衆院議員。